『日本一の旬を味わう! 知床鮭ウィークと斜里・ウトロをめぐる』。第2回は斜里町のウトロエリアを紹介する。しゃりエリアから車で40分ほどで行くことができ、バスも出ている。知床の大自然を象徴するエリア。斜里町の中でも、ウトロエリアは知床観光の中心地だ。2階建ての漁港『鮭テラス』もウトロエリアに位置している。
今回は漁師とネイチャーガイド。出身者と移住者。異なる視点から斜里町ウトロを見つめる2人の人生を聞きながら、ウトロの夜をめぐる。
今回は漁師とネイチャーガイド。出身者と移住者。異なる視点から斜里町ウトロを見つめる2人の人生を聞きながら、ウトロの夜をめぐる。
『知床酒場ピリカデリック』はウトロで深夜3時まで営業しているバー(*2024年当時)。ピリカデリックでは、手作りのピザやドリンク、デザートを楽しめる。今回は斜里産のにんじんをふんだんに使った人参ジュースをいただいた。
内装や家具は店主ピエさんがDIYで制作している。カウンターを照らすランプのシェードも、海岸で拾った海洋ゴミを再利用して造ったそうだ。店内で食事や会話を楽しむ人々の年齢層はさまざまで、ピリカデリックはウトロの中でもコミュニティ的な役割を果たしている。ピエさんはもともと斜里町出身ではない。北海道の帯広で生まれ育つ。家具職人になるために同じ道内の北見に移住し一軒目の飲食店を開業。現在は斜里ウトロを拠点にしている。
ピエさんが知床に惹かれた理由はシンプルだ。「一番は自然。俺は海も山もない平原のど真ん中に生まれたから、知床は山だ! 海だ! 森だ! 川だ! クマだ! シャチだ! クジラだ! 全部あるぞ! って」
ピエさんは、飲食店を経営しながらネイチャーガイドとしても活躍しているのだ。
内装や家具は店主ピエさんがDIYで制作している。カウンターを照らすランプのシェードも、海岸で拾った海洋ゴミを再利用して造ったそうだ。店内で食事や会話を楽しむ人々の年齢層はさまざまで、ピリカデリックはウトロの中でもコミュニティ的な役割を果たしている。ピエさんはもともと斜里町出身ではない。北海道の帯広で生まれ育つ。家具職人になるために同じ道内の北見に移住し一軒目の飲食店を開業。現在は斜里ウトロを拠点にしている。
ピエさんが知床に惹かれた理由はシンプルだ。「一番は自然。俺は海も山もない平原のど真ん中に生まれたから、知床は山だ! 海だ! 森だ! 川だ! クマだ! シャチだ! クジラだ! 全部あるぞ! って」
ピエさんは、飲食店を経営しながらネイチャーガイドとしても活躍しているのだ。
ヒグマと共生している知床でネイチャーガイドを務めるには、厳しい基準をクリアしなくてはいけない。資格を取得したあとも、毎年研修があり学科試験を受け続ける。テストに落ちると翌年のヒグマ活動期はガイドとして活動できない。「ヒグマの情報と対策はガイド全員と共有してシュミレーションしてる。だから遭遇しても落ち着いていられるし、安全なガイドができる」とピエさんは語る。
ネイチャーガイドの資格を取得後、ピエさんは観光会社などに所属するのではなく、1人でガイド業をはじめる。屋号の『Mother Nature's Son』は、大好きなビートルズの曲から取ったそうだ。ピリカデリックを開業したのもその頃だ。最初はガイドだけで食べていけるかわからなかったため、ウトロでもずっとやってきた飲食店を始めようと考えた。
子どもの頃からアウトドア派だったピエさんは「お店のお客さんを連れて外遊びしてるうちに、何か仕事になればいいなと」と知床を拠点にしようと考えた。
「僕は完全に突然変異だと思うんだよね。当時ガイドは知床の人ばっかりだったから『なんか怪しい飲み屋のマスターが来たぞ』って感じで」。別の地域からやってきてガイドになった人の中には、馴染めずにやめてしまった人もいたという。しかし、帯広から北見に行って開業した経験でアウェイ慣れしてたピエさんは折れなかった。
そして個人でガイドをはじめたことが、思わぬ好機へと繋がっていく。「ヒグマの活動期はガイドなしで入れないコースもあるのね。でもそれを知らずに、ツアーのない時間に来ちゃったお客さんもいるでしょ? そんなとき『今ガイドがいないので来れませんか?』って連絡もらうんだけど、最初の年はお客さんが1人でも毎日行ってた。そしたら、待機時間に地元のガイドの人とも話すようになって色々教えてもらいながら仲良くなった。『怪しいかと思ったら意外とちゃんとやってるんだ』っていうのが分かってもらえた」。翌年からピエさんは、他のガイド会社からもヘルプを頼まれるようになり知床でネイチャーガイドとしての地位を確立していった。
ネイチャーガイドの資格を取得後、ピエさんは観光会社などに所属するのではなく、1人でガイド業をはじめる。屋号の『Mother Nature's Son』は、大好きなビートルズの曲から取ったそうだ。ピリカデリックを開業したのもその頃だ。最初はガイドだけで食べていけるかわからなかったため、ウトロでもずっとやってきた飲食店を始めようと考えた。
子どもの頃からアウトドア派だったピエさんは「お店のお客さんを連れて外遊びしてるうちに、何か仕事になればいいなと」と知床を拠点にしようと考えた。
「僕は完全に突然変異だと思うんだよね。当時ガイドは知床の人ばっかりだったから『なんか怪しい飲み屋のマスターが来たぞ』って感じで」。別の地域からやってきてガイドになった人の中には、馴染めずにやめてしまった人もいたという。しかし、帯広から北見に行って開業した経験でアウェイ慣れしてたピエさんは折れなかった。
そして個人でガイドをはじめたことが、思わぬ好機へと繋がっていく。「ヒグマの活動期はガイドなしで入れないコースもあるのね。でもそれを知らずに、ツアーのない時間に来ちゃったお客さんもいるでしょ? そんなとき『今ガイドがいないので来れませんか?』って連絡もらうんだけど、最初の年はお客さんが1人でも毎日行ってた。そしたら、待機時間に地元のガイドの人とも話すようになって色々教えてもらいながら仲良くなった。『怪しいかと思ったら意外とちゃんとやってるんだ』っていうのが分かってもらえた」。翌年からピエさんは、他のガイド会社からもヘルプを頼まれるようになり知床でネイチャーガイドとしての地位を確立していった。
そんなピエさんのポリシーは「ウトロで稼いだお金はウトロで使いたい」。
斜里町のイベントのスポンサーになるなど、この地で新しいことを始めようとする若者に投資をしている。後進のネイチャーガイドのサポートにも積極的だ。ウトロのコミュニティへの考えを聞くと「俺はそんなに熱い人じゃないよ。周りの人を応援したいだけで。俺はアウェイでめちゃくちゃ苦労したから、頑張りたい人にはできるだけ全部教える。頑張りなよって」。ピエさんの言葉からは、移住者だからこその想いを感じた。
「ウトロで新たになにかしてみたいとかはないかな。これ以上やったら自分が足りなくなっちゃうし」。気づけば店内は常連客でほぼ満席になっていた。「現状にすごくいい意味で満足してるんだよね」。
『OYAJI』のオーナー古坂さんは、ウトロで50年近く漁師として生きている。昨年長年務めていた、協和漁業部の代表を退任。しかし、最近はOYAJIが忙しくなってきてるという。
「せっかく楽しようとしたのに、店にこんなに人が来るなんて」と言いながらも古坂さんは楽しそうだった。OYAJIでは古坂さんが自ら獲ったこだわりの魚料理を提供している。国内のみならず、中国・ベトナム・ドイツ・フィンランドなど世界各国からゲストが訪れている。
斜里町のイベントのスポンサーになるなど、この地で新しいことを始めようとする若者に投資をしている。後進のネイチャーガイドのサポートにも積極的だ。ウトロのコミュニティへの考えを聞くと「俺はそんなに熱い人じゃないよ。周りの人を応援したいだけで。俺はアウェイでめちゃくちゃ苦労したから、頑張りたい人にはできるだけ全部教える。頑張りなよって」。ピエさんの言葉からは、移住者だからこその想いを感じた。
「ウトロで新たになにかしてみたいとかはないかな。これ以上やったら自分が足りなくなっちゃうし」。気づけば店内は常連客でほぼ満席になっていた。「現状にすごくいい意味で満足してるんだよね」。
『OYAJI』のオーナー古坂さんは、ウトロで50年近く漁師として生きている。昨年長年務めていた、協和漁業部の代表を退任。しかし、最近はOYAJIが忙しくなってきてるという。
「せっかく楽しようとしたのに、店にこんなに人が来るなんて」と言いながらも古坂さんは楽しそうだった。OYAJIでは古坂さんが自ら獲ったこだわりの魚料理を提供している。国内のみならず、中国・ベトナム・ドイツ・フィンランドなど世界各国からゲストが訪れている。
今回はブリのカルパッチョや秋鮭のザンギ、いくらの醤油漬けをいただいた。メニューは獲れた魚によって毎日変わるが、鮭といくらは欠かせない存在だ。
父も漁師だった古坂さんの原点には、鮭といくらの存在があるという。「鮭もいくらもちっちゃい頃からずっと食べてきたから。昔のいくらは醤油漬けなんてなくて塩だけで、缶かんに入ってたあの味を今でも覚えてるね」。
OYAJIの経営以外にも鮭やいくらを使った新メニューや新事業の構想など、古坂さんは今後も新たな挑戦を計画しているそうだ。残念ながら「真似されちゃうからまだ内緒」とのことだが、近い将来に答え合わせができるだろう。
漁師だからこそ出せる魚料理の味はもちろん絶品。かつ古坂さんの人柄もあり、なんと星5を獲得しているレビューサイトもある。「逆にちょっとあやしいでしょ。でも来てくれたらみんないい店ってわかってくれる」と古坂さんは笑う。
ゲストとの交流は古坂さんにとってかけがえのない時間だ。
「この前来たオーストラリアの人は日本で食べた料理で一番おいしいって言ってくれて。でも『なにが一番おいしかったの?』って聞いたらトマトだって(笑い)」とユーモアを交えながら思い出を語ってくれた。
「あとお母さんが『困ったことがあったら古坂さんのところ行きなさい!』と中学生くらいの子を連れてきて。色々相談に乗ったらまたお母さんが『連絡取れるようにしときなさい!』って最後にLINE交換したこともあるね」
父も漁師だった古坂さんの原点には、鮭といくらの存在があるという。「鮭もいくらもちっちゃい頃からずっと食べてきたから。昔のいくらは醤油漬けなんてなくて塩だけで、缶かんに入ってたあの味を今でも覚えてるね」。
OYAJIの経営以外にも鮭やいくらを使った新メニューや新事業の構想など、古坂さんは今後も新たな挑戦を計画しているそうだ。残念ながら「真似されちゃうからまだ内緒」とのことだが、近い将来に答え合わせができるだろう。
漁師だからこそ出せる魚料理の味はもちろん絶品。かつ古坂さんの人柄もあり、なんと星5を獲得しているレビューサイトもある。「逆にちょっとあやしいでしょ。でも来てくれたらみんないい店ってわかってくれる」と古坂さんは笑う。
ゲストとの交流は古坂さんにとってかけがえのない時間だ。
「この前来たオーストラリアの人は日本で食べた料理で一番おいしいって言ってくれて。でも『なにが一番おいしかったの?』って聞いたらトマトだって(笑い)」とユーモアを交えながら思い出を語ってくれた。
「あとお母さんが『困ったことがあったら古坂さんのところ行きなさい!』と中学生くらいの子を連れてきて。色々相談に乗ったらまたお母さんが『連絡取れるようにしときなさい!』って最後にLINE交換したこともあるね」
経験が豊富な古坂さんはゲストから人生相談を受けることも多い。そんな古坂さんの人生哲学は『楽生(らくしょう)』。「俺は生きたいと思ったことと、死にたいと思ったことがある」それは衝撃的な語りから始まった。
『生きたい』が先だった。漁師として潜水士の資格を持ち、趣味でもダイビングが好きだった古坂さんは、海で死んでもいいとすら思っていた。ある日、水深約55mの地点で突然意識が不明瞭になった。「なぜか焦りはなくて『やっちゃったなー』って感じで」。
しかし薄れゆく意識の中に娘2人の顔が浮かんだ。「この辺でいいのか? 娘の花嫁姿見なくていいのか?」。気がついたときには意識を取り戻し、古坂さんは水面に上がっていた。「奥さんには『私は?』って言われちゃったけど」。
九死に一生を得た1年後、古坂さんは『死にたい』を経験する。首の手術をした古坂さんは手術後、寝ているときにほとんど呼吸ができなくなった。病院でレントゲンをとっても原因がわからない。
「夜が来るのが怖かった。苦しくて苦しくて辛くて苦しい。とにかく自分が楽になりたかった」。想像を絶する苦しみだった。「この話にもオチがあってね」古坂さんが続ける。ある日鼻血を出すために強く鼻をかむとピンクの塊が出てきた。それから嘘のように呼吸困難はなくなった。手術中に回収されなかったガーゼが気道を塞いでいたのだ。
「この体験をして初めてわかった。本当に死にたい人は、それを伝えることすらできないから死ぬんだって」。
この2つの経験が楽生に繋がってるという。「まず楽に生きる。100%頑張る必要はない。100%空気が入った風船に0.1%入れたら破裂するでしょ? 人間も同じ。80%でいい。その20%の余裕で遊んだりしているうちに色々吸収できる。そして楽しく生きる。戻らない過去やどうなるかわからない未来よりも、今を楽しんでいく」。
古坂さんは語る。「みんなの笑顔になってくれたら楽しいじゃない。それで自分も笑顔になって幸せになる。朝4時に漁師の仕事してまた準備して夜中まで店をやってるのはそれ」。古坂さんにとってOYAJIはまさに楽生を体現しているのだろう。
『生きたい』が先だった。漁師として潜水士の資格を持ち、趣味でもダイビングが好きだった古坂さんは、海で死んでもいいとすら思っていた。ある日、水深約55mの地点で突然意識が不明瞭になった。「なぜか焦りはなくて『やっちゃったなー』って感じで」。
しかし薄れゆく意識の中に娘2人の顔が浮かんだ。「この辺でいいのか? 娘の花嫁姿見なくていいのか?」。気がついたときには意識を取り戻し、古坂さんは水面に上がっていた。「奥さんには『私は?』って言われちゃったけど」。
九死に一生を得た1年後、古坂さんは『死にたい』を経験する。首の手術をした古坂さんは手術後、寝ているときにほとんど呼吸ができなくなった。病院でレントゲンをとっても原因がわからない。
「夜が来るのが怖かった。苦しくて苦しくて辛くて苦しい。とにかく自分が楽になりたかった」。想像を絶する苦しみだった。「この話にもオチがあってね」古坂さんが続ける。ある日鼻血を出すために強く鼻をかむとピンクの塊が出てきた。それから嘘のように呼吸困難はなくなった。手術中に回収されなかったガーゼが気道を塞いでいたのだ。
「この体験をして初めてわかった。本当に死にたい人は、それを伝えることすらできないから死ぬんだって」。
この2つの経験が楽生に繋がってるという。「まず楽に生きる。100%頑張る必要はない。100%空気が入った風船に0.1%入れたら破裂するでしょ? 人間も同じ。80%でいい。その20%の余裕で遊んだりしているうちに色々吸収できる。そして楽しく生きる。戻らない過去やどうなるかわからない未来よりも、今を楽しんでいく」。
古坂さんは語る。「みんなの笑顔になってくれたら楽しいじゃない。それで自分も笑顔になって幸せになる。朝4時に漁師の仕事してまた準備して夜中まで店をやってるのはそれ」。古坂さんにとってOYAJIはまさに楽生を体現しているのだろう。
オホーツクの波音が響くウトロの夜。徒歩で取材に向かうなか、あまりに大きな自然の美しさに心細さを感じた。そして、OYAJIとピリカデリックの窓からあふれる光が、暖かく心強かったのが印象に残っている。
最終回は鮭の現場にフォーカスし、斜里と鮭の未来を取材する。
最終回は鮭の現場にフォーカスし、斜里と鮭の未来を取材する。
<第三話に続く>
※ 記事に出てくる写真やデータは2024年10月時点のものです
※ 記事に出てくる写真やデータは2024年10月時点のものです