知床・斜里、鮭のいまをめぐる旅 第二話
海と森をつなげる、知床の鮭
黄金色のカラマツが北国の秋の最後を彩る、10月の終わり。数日前に初冠雪したという知床連山のふもとにある知床自然センターを訪れた。
まずは知床財団の山本幸さんから知床の概要を教わる。長さ約70km、幅約30kmと細長くて狭い知床半島。そのなかに、高山帯と平野部と川と海があり、クマが棲む多様な生態系がギュッとまとまっているのが特徴だという。
知床は観光地でありながら住宅地でもあり、クマは観光資源でありながら地元の人にとっては共生しなければならない生き物でもある。だからこそ、簡単に線引きできない難しさがあると語る。そこにきっと、この仕事の面白さがあるのだろう。
「クマと目が合っても、慌てないでガイドの指示に従ってくださいね」。そう言って送り出され、生身の身体で森に足を踏み入れた。大丈夫だとわかっていても、すぐそばにクマがいると思うと緊張が走る。ピエさんは心の強張りをほぐすように、目についたものを時折指差しながらゆっくりしたペースで案内してくれた。
「わぁ、あれを見て!」
「この色きれいだね!」
「この色きれいだね!」
ピエさんは、自分自身がまず楽しむタイプのガイドだ。自然への入り方を身をもって教えてくれる。一緒に歩くほどに、知床の森を愛していることが自ずと伝わってきた。
散策路の脇に、クマザサが茂る開けた土地を見つけた。開拓の跡だという。「知床は北海道の開拓の歴史と共にあると言っても過言ではない場所。1914年にこの場所に入植してきた人たちがいて、必死に土地を拓いてきたんだ」。
海風の厳しさに敗れこの地を去ったのだろうか。物言わぬ景色の中にも、ちゃんと見ると語りかけてくる歴史があることを教えてくれた。
知床は手付かずの大自然が広がっている場所と思っている人も多いかもしれない。実のところ私もそう思っていた。けれど本当はそんなことないのだ。
開拓を夢見てこの地を踏み、圧倒的な自然に敗れ去った人もいる。一方で、それでもここで生きることを決め残った人がいる。そして、昔から住んでいたヒグマもいる。現在は観光地として、人と自然の絶妙な距離を保ち続ける知床財団の努力がある。人の出入りがある限り、“手付かず”ではいられないのだ。
そんなことを考えながら歩いていると、見晴らしのよい断崖へ出た。海の向こうから優しい風が吹き、岩に打ち付ける波の音が遠くに聞こえる。潮の流れによって深みの違う色を見せるオホーツクブルー。その海を横切り進む、観光船。「知床は、狭い面積に海と山が凝縮しているんです」。知床財団の山本さんに聞いた話が、実感をもって伝わる。この景色のどこかに、クマがいて、鮭もいる。
ここ数年の海の環境の変化は、森にも影響を与えているのだろうか。
「森の生態系はね、そう簡単に変わらない」。ゆっくり歩みを進めながら、ピエさんは言う。今年特別暑かったから、翌年何らかの動物が減る。そういった急激な変化はないのだという。数多の生き物たちが支える森の生態系は、何かが変わるだけで簡単に崩れるものではないのだ。
「木々はその場から動けないけど、海の生き物は違うでしょ。自分の心地よいところに泳いでいくことができる。だから、鮭がいるのかどうか、本当のことは誰にもわからないのかもね。自然は、人智を超えているから」。
もう7年ほど前になるだろうか。知床五湖をガイドと一緒に回った時、エゾシカによる食害が深刻だという話を聞いた。エゾシカに広葉樹の皮や芽をことごとく食べられてしまうため、100年後には知床から広葉樹がなくなっているかもしれないということだった。
思い出して今の状況を尋ねてみると、「それがね、だいぶ改善されたんだよ」とピエさん。下を見て歩いていると、確かに広葉樹の芽を見つけることができた。エゾシカの頭数を減らす取り組みがうまくいっているのだという。ゆるやかに、でも確かに、人の手を加えたことの成果が現れている。
鮭漁も、結局のところ人が手を加えなければ成り立たない。斜里で獲れる鮭の約8割は、人工孵化させ、海に放流したもの。それでも2020年の回帰率は1.8%と、ほとんどの鮭が生まれた川に帰らない。
斜里に帰ってくる途中で、他の漁場の網にかかるのか。環境の変化で、息絶えているのか。人が手を加えて広葉樹の新芽が芽吹いたように、海にも目に見える変化を感じることはできるのだろうか。さまざまな仮説を立てながら、人が手を加えられる距離を測り続けている。
森歩きを終え、ウトロ漁港の近くにあるウトロ漁協婦人部食堂へ訪れた。いただいたのは、ウトロの漁師の奥さんたちがつくる漬けの刺身と鮭ほぐし、いくらが乗った贅沢な三種丼。脂が乗った旬の鮭を味わいながら、今朝Bon’s Homeのすぐそばにある川で見たボロボロに傷ついた鮭のことを思い出した。
産卵のために川に遡上し、息絶えた鮭。その周囲には力の限り遡上を続ける満身創痍の鮭たちの魚影が見えた。ここで最期を遂げた鮭は、分解され土の養分となって海に溶け出すという。鮭は知床の海と森をつなぐ、重要な自然の構成員なのだ。
生態系を強くするバル、ピリカデリック
夜はBon’s Homeから歩いて1分もかからない場所にあるバル、「ピリカデリック」へ。カウンターの向こう側には、昼間一緒にいた人の姿が。ビールを注いで出してくれたのは、知床自然ガイドのピエさんである。実はピエさん、夜はピリカデリックという飲食店を営む店主へと顔を変える。
月曜日でありながら満席のカウンターには、ウトロのホテルに勤める女性や自然保護団体の職員、アウトドアショップの店員や漁師らが肩を寄せ合って座っていた。小さな町だからだろうか、彼らはみな顔見知りのようだった。「ここが、観光で働く人と地元民をつなげる場になったらという思いもある」と、ピエさんは語る。
鮭のカルパッチョや知床鶏の温玉サラダ。ここでしか食べられない料理を堪能しながら、話は自ずと自然環境やゴミ拾いの話にうつった。さすが世界自然遺産の町である。それぞれの立場から本音を語り合い、夜は更けた。
店を出ると、北国のシンとした夜の寒さが待っていた。ウトロをぎゅっと縮小したような場所だな。店の明かりを後にしながら思う。
知床が人なくして成り立たない場所なのだとしたら、人間もまた、大きな自然の構成員に含まれているのではないだろうか。数えきれない生き物の多様性があることが、生態系を強くさせる。それはきっと、ウトロに生きる人も含めて言えること。それぞれの正義を持ったいろんな立場の人がいて、守られる自然がある。ここに生きる人たちが集まって意見を交わしアイデアを出し合う。こんな場所があることで、ウトロはきっともっと強い町になるだろう。
すっかり愛着の湧いたウトロを離れて、明日は斜里港で第二十一北洋丸の鮭漁に同行させてもらう。
<第三話に続く>
※ 記事に出てくる写真やデータは2021年10月時点のものです
※ 記事に出てくる写真やデータは2021年10月時点のものです